2012年7月27日金曜日

Episode1-(5) Level 25 years ago.

完全に個人的な見解ですが、私が25年前の自分を追い越したのは、この頃だったと思います。入門から半年以上経っています。つまりは、「ブランクを取り戻すのに頑張って半年掛かった」ということになります。本当に甘くは無いと思いました。

結局私は、目的が無いと動きが悪くなるので、「試合」や「審査」が一つの節目となります。
オヤジの大会(正式名称は違います)の後は、11月の神奈川の親善大会が次の節目となりました。

型については、このまま「抜塞大」で行こうかと思っていました。
ある稽古の夜、抜塞大と慈恩という型をそれぞれ先生に見て頂きました。
「慈恩」の方が良いと言われました。
「慈恩」という型は、子供の頃、一番やった型だと記憶しています。驚きでした。

そのように言うと、まるで私の「慈恩」が洗練されて、完成度の高いものだったように聞こえるかも知れませんが、とんでもない話です。「慈恩」の方がマシだったというのが正解で、かなり色々ご指導を頂き、修練を積み、それからさらに半年後にある程度マシな仕上がりになりました。本当に甘くはありません。

そのようなわけで、この試合に出場したときは、まだ、未完成も甚だしい状態でした。
でも、初心者向けの大会です。やはり優勝するぐらいのつもりではいました。

結果は2位。これだけ聞けば凄そうですが、私が出場した、40歳以上の部は、出場人数が4人でした。下から数えたら3位です。まぁこれはこんな感じだと思います。
言い訳がましい事をいえば、緊張のあまり、ギクシャクしてしまったのですが、それは相手だって同じ条件です。本番でギクシャクするのは鍛錬が足りないのです。

問題は組手です。
あまり口外はしていませんでしたが、でも見れば分かるという話もありますが、元々組手は苦手でした。それが急に治るものではありません。
前回のオヤジの大会の頃から組手については考えていました。試合のためにでは無く、下手であることを強く認識した上で、少しずつでも鍛錬を積んでいかなくてはと思ったのです。

結果は緑帯、紫帯もいる中4位。組手の出場者も同一メンバでしたので、つまりは最下位ということです。とっても「不甲斐ない」結果です。
でも、自分が下手であるという認識があるので、実は、初戦で当たった紫帯の方に、技ありを1つだけ取れた事を、心密かに喜んでいました。(技あり2つで、1本。つまり勝利になります。)しかも、主審が技ありを取ってくれたのに、副審が無効と判定をし、結果無効になった事が2回ありました。とてもおしかったのです。
やっと出合い(相手が突こうとした一瞬に、それより先に突く)らしき事ができるようになったという状況になにやら手応えを感じていたのです。

ちなみにですが、この試合は、一緒に出場した大人のNAOさんが一般有級者の部の組手で優勝するなど、川崎の道場の分道場として、6人で参加して4人が受賞するという結果に終わりました。
歴史が浅い道場なので、初心者の層が厚いのです。だからまだ大会で勝つことも無いですが、初心者向けの大会で、しっかり結果を出すところに、ウチの道場の輝かしい未来を垣間見た気がしました。

2012年7月24日火曜日

Episode1-(4) Oyaji tournament.

9月初めの大会に惨敗した日、帰宅途中昼間から酒を飲んだりしたというどうしようも無い話はしましたが、実は帰宅後、すぐに準備して、スポーツクラブに行きました。例の格闘エアロです。まるでそこに何か亡霊でもいるかのように、全力で拳を振るい、蹴りました。

その翌火曜日、稽古。それこそ、何かをぶっ壊すように、出せるすべての力を出して型の練習をしました。ただ、多分に、自分からは見えないけど、気迫ばかりで、力が入り過ぎていて、とても見れたものでは無かったと思います。

そしてその翌日曜日、惨敗した大会から丁度一週間後、出場年齢40歳から(女子は35歳から)という、まさにオヤジの大会に出場しました。この大会は関東中が一堂に会すのですが、この年の開催はたまたま神奈川でした。早起きして、会場の平塚に向かいました。

会場入してびっくり。色帯というか、黒帯では無い人を探すのが大変な状態でした。
とんでも無いところに来てしまったに違いないと思いました。

型と組手、40歳~44歳に出場しました。どちらも無謀だと思いました。
「○○先生頑張って~」と応援の子供たちの声。どちらかの師範や指導員さんも参戦されている模様です。

逆に肩の力が抜けました。
勝てるわけが無い試合に、何としても勝たなければならないわけでは無い状況ですから。

型の試合。
予選は、やはり2人で同時に演じて、主審と4人の副審が優劣を判定します。
そして、ランダムに型が指定されますが、この大会では平安四段と鉄騎初段のどちらかでした。
良く考えてあると思います。どちらも、難しいというか、習熟度がはっきり出やすいと私は考えます。

相手はやっぱり黒帯の方。鉄騎初段が指定されました。
肩の力が抜けて臨んでも、試合は不慣れ。緊張しないわけがありません。かなり緊張していたと思うし、力も入りすぎていたに違いありません。ただ、少なくとも一週間前の事は忘れていたと思います。
そして、胸を借りる立場にある場合の基本としては、全力で挑む事です。気合も大声で出しました。

想定通り負けたましが、副審の一人の先生が、引き分けの判定をしていらっしゃいました。もう私としては、これで十分です。
ウチの師範もやはりその点について、ニコニコしながら、触れられていました。
「格下(茶帯)だけど気合が入っていたからですかね?」
私もそんなところだろうと思いました。

というわけで、決勝トーナメント用に用意しておいた、「抜塞大」は使うことがありませんでした。

午後は組手です。
周囲を見てビビりました。怖そうな人ばかり。流血している人もいらっしゃいました。怖い。
よくよく考えたら、大人になって、初めての組手です。大体25年ぶりです。腰痛が悪化していて、この頃がピークでした。もともと組手は苦手でした。何一つ前向きな要素がありません。かなりビビリながら、コートに立ちました。
ただ、組手は、不思議なもので、始める前の緊張はかなりのものなのですが、始まってしまうとなんとなく勢いで行ってしまいます。気がついたら、ストレート負けしていました。必死過ぎて経過を覚えていませんでした。
終わった後、深々と礼をする相手の方に、なんだか妙に「武人」を感じました。
相手をしていただいてありがたくて、しっかり礼をするべきは、こちらです。

あとで、師範の奥さんが撮影してくださったビデオを見ました。
ろくな突きも出せない分際で、回蹴りを繰り出したり、なんだか必死にやっている様に、自分で笑ってしまいました。案外簡単に負けていた事も良くわかりました。

(その動画の一部を切り出した写真です。こちらを向いてるのが私。相手は埼玉の方でした。)

組手で負けた後、隣のコートを見たら、ウチの師範が組手をしていました。勝っていました。
近くで見たかったのですが、負けたとはいえ、第一回戦が終わらないと、その場を去ることはできません。いや、正確には去りにくいという感じです。第一回戦終了と同時に、防具も拳サポータも付けたまま、隣のコートに走りました。

準優勝していました。ウチの師範はあまり自分の事を語らないので、どんなレベルの方かも知らなかったので、びっくりしました。

その他、神奈川の団体戦が見事でした。組手も確か上位に入っていたし、型では「なでしこ神奈川」という女性ばかりのチームで、抜塞大で優勝していました。ウチの先生の奥さんも出場していましたが、これはすごい。人数に上限が無いのですが、16人で演じていました。ぶつからないだけでもすごいと思いました。

益々、空手が面白くなってしまった大会でした。

2012年7月6日金曜日

Episode1-(3) Beyond the summer.

4月始めに正式入会すると、毎週土曜日に、ほぼ欠かさず稽古に参加しました。

とにかく、楽しくてしょうがなかった。はりきって稽古しました。

あるとき、稽古が終わったあと、師範に基本的な型を頭から全部流すように教え頂いた事がありました。具体的には平安初段から五段までを、丁寧にゆっくりと教えて頂いたのです。
ところどころ、初めて見るような気がしました。

その時だけで無く、たまに、自分が覚えているのと違うと思うことが多々ありました。
それは、団体の違いによるものと、20数年の間に変わってしまったものと、その長い年月の間に私の頭の中で勝手に変更されてしまったものなどの理由が考えられますが、多分そのすべてが入り交じっているのだと思います。矯正は案外大変でした。
逆に、完全に忘れ去ってしまったのに、体が覚えていたというパターンもあります。
程度は型によって違いますが、鉄騎初段という型は、知らないと思っていたのに、なぜか出来たのです。完全に頭だけが忘れていたのでしょう。

あるとき、9月に2つの大会があるので、出るかと聞かれて、二つ返事で出ることにしました。
ただ、9月には審査も受ける事になっていて、とても練習が足りないような気がしました。
平日は、仕事の都合でどうしても時間に行けないのですが、40分から1時間程度遅刻してなら行く事ができます。
7月から週3回全て行く事にしました。さすがに暑いし、楽しくてしょうがないというほどでは無く、かなりきつく感じました。

こうして、タオル1本、500mlのペットボトル1本ではとても足りない、妙に暑い夏も過ぎ、お盆休みに腰痛が発症して歩くのも辛いという困った状況を抱えつつ、残暑激しい9月の頭、20数年ぶりの審査を受けました。当時、他団体からの移籍制度がありました。特に級の審査を受けなくても、一年間修行を積んで、段審査を受け、合格すれば、初段認定されるというものです(※)。その制度を完全には使わず、師範のお勧めもあり、昇段審査までに、昇給審査を受けることになりました。これは、後で思うに、正解だったと思います。武道とはそんな甘いものではありません。そんなに器用では無いので、20数年のブランクは簡単には埋まらないのです。
移動基本と、かなり不慣れな自由一本組手、型はこのときと、続く大会のためにがんばって練習した抜塞大。

審査をしていただいた先生の一人からは、「正確さが足りない」とご指摘を受けました。抜塞大は簡単そうに見ええて、細かい挙動が難しいという事を、その後段々覚えて行くことになります。

(※移籍制度はその後、確か2度ほど内容が変わり、現在では無くなっている模様です。)

2012年7月1日日曜日

Episode1-(2) Introduction.

つい昨日の事ですが、道場に見学の方がいらっしゃいました。経験者の方で、お子様2人と一緒に、体験入会でした。道場のWEBからのお問合せは、私のところに届きます。いつもは師範に転送しているのですが、最近師範は平日とても忙しそうなので、今回は私が対応しました。
当日は道衣持参でいらっしゃるよう勧めました。経験の期間から考えて、黒帯だろうとは予想はしていましたが、くたびれた黒帯を締めていました。つまりかなりの熟練者と推測されるわけです。
でも、かなりのブランクがあるとの事。私が体験入会で初めてウチの道場に行った日も事を思い出しました。

去年の3月....
とりあえず、メールには、状況を書きました。
小学校6年生から高校3年まで松濤館流の道場で稽古をしていた事。
当時の道場では、所属する道場で初段を仮に取り、公認の初段を取得する事。
道場では初段を取ったが、公認の初段には落ちていた事。

そして、返事が来ました。早速見学に行く事にしました。2011年の3月5日。当日は審査があるとの事で、楽しみにしていましたが、家庭の都合で行く事が出来ませんでした。
気を取り直して、一週間後の12日に行く事にしましたが、その前日の2011年3月11日は、日本国民であるからには、忘れることの出来ない事態が起こりました。当然稽古はありませんでした。完全に出鼻をくじかれましたが、こちらも当然それどころではありません。稽古の心配より米の残りが少なくて入手困難である事を心配していました。

安全の確認が出来ていないと言うことで、いつも利用している中学校の武道場がしばらく使えないとの事。その一週間後には、それ以外の場所で、稽古が再開されました。

スポーツウェアで行くと、師範に「道衣じゃ無いのですか?」と聞かれました。ウチの道場は、道衣があるなら、トライアルでも、道衣で参加するものだとここで私は認識しました。

当日は、準備体操をして、その場基本をして、移動基本をして、型、組手という順だったと思います。
嬉しくて、型などは、平安初段以外ほとんど覚えていないにも関わらず、全部参加してしまいました。楽しくてしょうがありませんでした。
結果、それから、2、3日、強度の筋肉痛で歩くのもままならない状況に陥ることになりましたが。

その次の稽古あたりで、入会することにしたのだと思います。元より入会するつもりではいました。
一度は黒帯になったとはいえ、25年のブランクがありました。普通考えれば、白帯からやり直しでもおかしくない。でも、師範は一歩戻って茶帯から始める事をご提案してくださいました。やり直す手間が嫌だった私は、喜んでそれを受けました。ただ、帯の色には意味があります。手間を省けた反面、帯に見合った実力が必要なのです。給料の前借りをした気分です。そこから、私のブランクを取り戻すための駆け足の稽古が始まりました。もういい歳です。きついに決まっています。でも、結局私はせっかちなのです。


ちなみに、私が高校生の頃使っていた道衣と、黒帯は実家にあるはずでした。後日帰郷し、徹底捜索をしましたが、見つかりませんでした。両親は引越しのタイミングか何かに捨てたかもと言われました。まぁ帯はともかく、道衣はもうものすごく黄ばんで使い物にならなかったことでしょう。

そういうわけで、道衣は新調しました。
届いたとき、嬉しくて、自宅で撮影しました。
高校生の前半だったか、ひと通り成長が止まった頃、少し小さくなった薄い道衣を着ていました。、当時の師範に勧められて買った綿の分厚い道衣を思い出して、似たような道衣を買いました。綿はとても縮むので、現在の師範の勧めもあり、かなり大きめにしました。茶帯は借りる事にしましたが、在庫が無かったようで、新品を支給して頂きました。