2012年10月10日水曜日

Episode1-(8) Ignorance is bless.-3

地区予選(県大会)の前の月の3月。厳しい稽古は続きました。
全ては大会で勝つために....とまでは思っていませんでしたが、善処しようと頑張りました。
厳しいと言っても、それはオヤジ目線であって、1000本突きとかスクワット蹴り100本とか、そういう事をしていたわけではありません。休まずに、そして、春合宿もそうでしたが、本来稽古の無い日にも稽古に打ち込みました。稽古の頻度が上がるだけでも、オヤジにはきついのです。

ところで、県大会には団体戦があります。3人一組で参加します。以前にも言いましたが、大会に出場する大人総勢3名、GARI君とNAOさんと私で組手と形両方出場することになっていました。

組手は先鋒、次鋒、主将の順で組手をするので、とにかく個々人が頑張れば良いのですが、形はそうはいきません。3人の息がピッタリ合っていないとなりません。仕事の都合などもあり、なかなか3人揃うことは無かったので、たまに揃うと、必死こいて合わせる練習をしました。
先生が選んでくださったのは「十手」という形だったのですが、これが、特に楽なわけでも簡単なわけでもありませんでした。唯一良い所は、「とにかく短い」ということです。3人揃うことがあまり無かったので、揃えやすいようになるべく短い形にしようという配慮だと思います。時間、時期、メンバなどなどを考慮すれば、ベストチョイスだったとも思います。
(確かに、茶帯もいて、こういう時によく使う形は2種類あると思います。ただ、どちらも、みんな見慣れているし、粗が目立つところはあると思います。まぁ余計な話です。)

毎月第四土曜日は、いつもの場所が都合により使えないため、公式には「休み」ということになっていますが、祝日が重なるでも無い限りは、休んだ事はありません。大概どこかを借りて稽古します。3月の第四土曜日は、初めて区の「市民館」というところに行きました。まだ新しく綺麗な上、大きな鏡があり、何しろ空調があるというすばらしい会場です。手すりまであるので、モダンバレエ....じゃなくて初心者が廻し蹴りの練習をすることにも適しています。
ここで、3時間、前半は通常の稽古で、後半は試合のリハーサルをしました。
形の個人戦は例によって、トーナメント方式で、2人ずつ戦い、勝ち抜けていきます。
本番のように、2人ずつ、その場でランダムに告げられた型を演じました。

それから2週間後、ついに地区予選となります。私にとって初めての公式戦。そして我らが道場が1月に支部として独立してから初めての試合です。

2012年9月5日水曜日

Episode1-(7) Ignorance is bless.-2

春合宿は、2日間に渡って行われましたが、通える範囲だったので、通いました。
初日、型の稽古が終わると、師範は普段の稽古のため道場へ。私は諸用により、一度帰宅したのですが、一時間程度遅れて合流。既に膝が笑っていました。

翌日は組手の稽古。もうひと踏ん張り会場へ。
中学生以上は一緒だったのですが、中学生といえどもなかなか激しかったりします。 打ち込みの練習でもその迫力に圧倒されました。


稽古終了後、審査員の試験があり、有段者の皆さんは試験のための組手をしていました。
試験のための組手といっても、やっている本人達は大マジです。ウチの道場のGARI君は大人の方とあたって、上段に廻蹴を入れられていました。このままで済ますかと、二巡目は裏拳打を入れていました。
試験を受けている先生が、「抜けている」と誤判定していたので、いかに速かったかがわかります。

そしてその後、有志による組手。私は結局GARI君にあたってしまい、普段と変わらない感じになってしまいましたので、二巡目は、GARI君に手振りで隣にいた中学生(高校生?)と順番を変わってもらうようお願いしました。私の隣にいた中学生はGARI君と当たる事になってしまったわけですが、あからさまに嫌な顔をしていました。
GARI君は20代前半で、組手になると迫力があり過ぎて怖いのです。私としては怖い人は実際沢山いると思いますし、しょっちゅう稽古をつけてもらっているので、GARI君自体に慣れていますが、いきなり組手をやったら、やはり怖いだろうとも思います。

私の方の結果といえば、ノーカウントでした。
審判をしてくださった先生に、「腰が引けてる」と注意されました。
これは大きな欠点であり、ここで重く受け止めるべきでしたが、この件を軽く見たために、それから5ヶ月後に痛い目に遭うことになります。

夕方、帰宅。あまり私は昼寝とかしないのですが、まだ日が出ているのに、布団に入って寝ました。


それから2週間後、ウチの道場のメンバ数人で、県央にある、とある道場に出稽古に行きました。
春合宿でGARI君や私と組手をした中学生(高校生?)がいました。どうやらそこの道場の所属だった模様です。GARI君と目が合った時に複雑な顔をしていました。
その道場での稽古の後半に、組手の練習をしました。その中学生だったか、別な若者だったか忘れましたが、GARI君にあたって、前に出ると怖いし、下がるとその道場の先生に、「下がるな」と怒鳴られるしで、散々な感じでした。やっぱコレは空手であって、スポーツじゃ無いんだよなぁ~と感じてしまいます。

そんな感じで、「試合モード」で、きつかった3月が過ぎ去って行きました。

2012年8月13日月曜日

Episode1-(6) Ignorance is bless.-1

なんとなく、試合の直前は緊張のあまり、「もう試合なんか出るもんか」と思うのですが、試合の後は、「今度こそは....」と思ったりして、同じ道場の20代前半の青年であるGARI君に「地区予選」に出ましょうと言われ、それがどんな試合かよくわかっていないまま、快諾しました。師範に話すと、これまた特にコメントが無く、「そうですか。出ますか?」と言われただけでした。

ただ、その大会のレベルが低くない事は肌で感じていたので、「形だけ出ます」と言ったら、「ウチは認めません。組手とセットです。」と言われました。渋々組手も出場することになりました。
さらに、前の親善大会の組手で、優勝していたNAOさんも入れて、3人で団体戦に出ることにもなりました。

「おやじの大会」(正式名称は違います)もそうですが、予選を勝つ見込みが無くても、決勝用の形の練習はバッチリするのが、ウチの道場です。決勝で使う形を選ばなくてはなりません。私は「慈恩」は親善大会でもやったし、ちょうどこのころ、教本やYouTubeの動画を見て、「観空大」の順番を思い出していたので、恐る恐る師範に申告すると、「オヤジがやる形じゃない」と言われました。確かに、挙動数は多いし、動きは大きく速いし、とてもきついのは確かです。ただ、「オヤジには無理」という単語に強く反応してしまうところがあり、そのまま通してしまいました。こうして、4月の地区予選まで、多分使わないであろう形の稽古を必死こいておこなう事になります。

こうして、今度は「地区予選対策モード」になったわけですが、年が明けて2012年。「倶楽部昭和」の忘年会などのイベントを無視すれば、まずは、地区予選と同じくらい大事なイベントがありました。昇級審査です。ここで1級をとらないとなりません。流石に「観空大」は未完成だったので、「慈恩」で受審し、なんとか昇級しました。これで段審査を受ける権利を得た事になります。

昇段試験よりは、地区予選が先にあるので、地区予選対策モードに再度戻ります。

2月それほど寒さが厳しく無かった寒稽古を経て、

3月には、強化合宿に参加。
オヤジにはきつい稽古が続きました。

2012年7月27日金曜日

Episode1-(5) Level 25 years ago.

完全に個人的な見解ですが、私が25年前の自分を追い越したのは、この頃だったと思います。入門から半年以上経っています。つまりは、「ブランクを取り戻すのに頑張って半年掛かった」ということになります。本当に甘くは無いと思いました。

結局私は、目的が無いと動きが悪くなるので、「試合」や「審査」が一つの節目となります。
オヤジの大会(正式名称は違います)の後は、11月の神奈川の親善大会が次の節目となりました。

型については、このまま「抜塞大」で行こうかと思っていました。
ある稽古の夜、抜塞大と慈恩という型をそれぞれ先生に見て頂きました。
「慈恩」の方が良いと言われました。
「慈恩」という型は、子供の頃、一番やった型だと記憶しています。驚きでした。

そのように言うと、まるで私の「慈恩」が洗練されて、完成度の高いものだったように聞こえるかも知れませんが、とんでもない話です。「慈恩」の方がマシだったというのが正解で、かなり色々ご指導を頂き、修練を積み、それからさらに半年後にある程度マシな仕上がりになりました。本当に甘くはありません。

そのようなわけで、この試合に出場したときは、まだ、未完成も甚だしい状態でした。
でも、初心者向けの大会です。やはり優勝するぐらいのつもりではいました。

結果は2位。これだけ聞けば凄そうですが、私が出場した、40歳以上の部は、出場人数が4人でした。下から数えたら3位です。まぁこれはこんな感じだと思います。
言い訳がましい事をいえば、緊張のあまり、ギクシャクしてしまったのですが、それは相手だって同じ条件です。本番でギクシャクするのは鍛錬が足りないのです。

問題は組手です。
あまり口外はしていませんでしたが、でも見れば分かるという話もありますが、元々組手は苦手でした。それが急に治るものではありません。
前回のオヤジの大会の頃から組手については考えていました。試合のためにでは無く、下手であることを強く認識した上で、少しずつでも鍛錬を積んでいかなくてはと思ったのです。

結果は緑帯、紫帯もいる中4位。組手の出場者も同一メンバでしたので、つまりは最下位ということです。とっても「不甲斐ない」結果です。
でも、自分が下手であるという認識があるので、実は、初戦で当たった紫帯の方に、技ありを1つだけ取れた事を、心密かに喜んでいました。(技あり2つで、1本。つまり勝利になります。)しかも、主審が技ありを取ってくれたのに、副審が無効と判定をし、結果無効になった事が2回ありました。とてもおしかったのです。
やっと出合い(相手が突こうとした一瞬に、それより先に突く)らしき事ができるようになったという状況になにやら手応えを感じていたのです。

ちなみにですが、この試合は、一緒に出場した大人のNAOさんが一般有級者の部の組手で優勝するなど、川崎の道場の分道場として、6人で参加して4人が受賞するという結果に終わりました。
歴史が浅い道場なので、初心者の層が厚いのです。だからまだ大会で勝つことも無いですが、初心者向けの大会で、しっかり結果を出すところに、ウチの道場の輝かしい未来を垣間見た気がしました。

2012年7月24日火曜日

Episode1-(4) Oyaji tournament.

9月初めの大会に惨敗した日、帰宅途中昼間から酒を飲んだりしたというどうしようも無い話はしましたが、実は帰宅後、すぐに準備して、スポーツクラブに行きました。例の格闘エアロです。まるでそこに何か亡霊でもいるかのように、全力で拳を振るい、蹴りました。

その翌火曜日、稽古。それこそ、何かをぶっ壊すように、出せるすべての力を出して型の練習をしました。ただ、多分に、自分からは見えないけど、気迫ばかりで、力が入り過ぎていて、とても見れたものでは無かったと思います。

そしてその翌日曜日、惨敗した大会から丁度一週間後、出場年齢40歳から(女子は35歳から)という、まさにオヤジの大会に出場しました。この大会は関東中が一堂に会すのですが、この年の開催はたまたま神奈川でした。早起きして、会場の平塚に向かいました。

会場入してびっくり。色帯というか、黒帯では無い人を探すのが大変な状態でした。
とんでも無いところに来てしまったに違いないと思いました。

型と組手、40歳~44歳に出場しました。どちらも無謀だと思いました。
「○○先生頑張って~」と応援の子供たちの声。どちらかの師範や指導員さんも参戦されている模様です。

逆に肩の力が抜けました。
勝てるわけが無い試合に、何としても勝たなければならないわけでは無い状況ですから。

型の試合。
予選は、やはり2人で同時に演じて、主審と4人の副審が優劣を判定します。
そして、ランダムに型が指定されますが、この大会では平安四段と鉄騎初段のどちらかでした。
良く考えてあると思います。どちらも、難しいというか、習熟度がはっきり出やすいと私は考えます。

相手はやっぱり黒帯の方。鉄騎初段が指定されました。
肩の力が抜けて臨んでも、試合は不慣れ。緊張しないわけがありません。かなり緊張していたと思うし、力も入りすぎていたに違いありません。ただ、少なくとも一週間前の事は忘れていたと思います。
そして、胸を借りる立場にある場合の基本としては、全力で挑む事です。気合も大声で出しました。

想定通り負けたましが、副審の一人の先生が、引き分けの判定をしていらっしゃいました。もう私としては、これで十分です。
ウチの師範もやはりその点について、ニコニコしながら、触れられていました。
「格下(茶帯)だけど気合が入っていたからですかね?」
私もそんなところだろうと思いました。

というわけで、決勝トーナメント用に用意しておいた、「抜塞大」は使うことがありませんでした。

午後は組手です。
周囲を見てビビりました。怖そうな人ばかり。流血している人もいらっしゃいました。怖い。
よくよく考えたら、大人になって、初めての組手です。大体25年ぶりです。腰痛が悪化していて、この頃がピークでした。もともと組手は苦手でした。何一つ前向きな要素がありません。かなりビビリながら、コートに立ちました。
ただ、組手は、不思議なもので、始める前の緊張はかなりのものなのですが、始まってしまうとなんとなく勢いで行ってしまいます。気がついたら、ストレート負けしていました。必死過ぎて経過を覚えていませんでした。
終わった後、深々と礼をする相手の方に、なんだか妙に「武人」を感じました。
相手をしていただいてありがたくて、しっかり礼をするべきは、こちらです。

あとで、師範の奥さんが撮影してくださったビデオを見ました。
ろくな突きも出せない分際で、回蹴りを繰り出したり、なんだか必死にやっている様に、自分で笑ってしまいました。案外簡単に負けていた事も良くわかりました。

(その動画の一部を切り出した写真です。こちらを向いてるのが私。相手は埼玉の方でした。)

組手で負けた後、隣のコートを見たら、ウチの師範が組手をしていました。勝っていました。
近くで見たかったのですが、負けたとはいえ、第一回戦が終わらないと、その場を去ることはできません。いや、正確には去りにくいという感じです。第一回戦終了と同時に、防具も拳サポータも付けたまま、隣のコートに走りました。

準優勝していました。ウチの師範はあまり自分の事を語らないので、どんなレベルの方かも知らなかったので、びっくりしました。

その他、神奈川の団体戦が見事でした。組手も確か上位に入っていたし、型では「なでしこ神奈川」という女性ばかりのチームで、抜塞大で優勝していました。ウチの先生の奥さんも出場していましたが、これはすごい。人数に上限が無いのですが、16人で演じていました。ぶつからないだけでもすごいと思いました。

益々、空手が面白くなってしまった大会でした。

2012年7月6日金曜日

Episode1-(3) Beyond the summer.

4月始めに正式入会すると、毎週土曜日に、ほぼ欠かさず稽古に参加しました。

とにかく、楽しくてしょうがなかった。はりきって稽古しました。

あるとき、稽古が終わったあと、師範に基本的な型を頭から全部流すように教え頂いた事がありました。具体的には平安初段から五段までを、丁寧にゆっくりと教えて頂いたのです。
ところどころ、初めて見るような気がしました。

その時だけで無く、たまに、自分が覚えているのと違うと思うことが多々ありました。
それは、団体の違いによるものと、20数年の間に変わってしまったものと、その長い年月の間に私の頭の中で勝手に変更されてしまったものなどの理由が考えられますが、多分そのすべてが入り交じっているのだと思います。矯正は案外大変でした。
逆に、完全に忘れ去ってしまったのに、体が覚えていたというパターンもあります。
程度は型によって違いますが、鉄騎初段という型は、知らないと思っていたのに、なぜか出来たのです。完全に頭だけが忘れていたのでしょう。

あるとき、9月に2つの大会があるので、出るかと聞かれて、二つ返事で出ることにしました。
ただ、9月には審査も受ける事になっていて、とても練習が足りないような気がしました。
平日は、仕事の都合でどうしても時間に行けないのですが、40分から1時間程度遅刻してなら行く事ができます。
7月から週3回全て行く事にしました。さすがに暑いし、楽しくてしょうがないというほどでは無く、かなりきつく感じました。

こうして、タオル1本、500mlのペットボトル1本ではとても足りない、妙に暑い夏も過ぎ、お盆休みに腰痛が発症して歩くのも辛いという困った状況を抱えつつ、残暑激しい9月の頭、20数年ぶりの審査を受けました。当時、他団体からの移籍制度がありました。特に級の審査を受けなくても、一年間修行を積んで、段審査を受け、合格すれば、初段認定されるというものです(※)。その制度を完全には使わず、師範のお勧めもあり、昇段審査までに、昇給審査を受けることになりました。これは、後で思うに、正解だったと思います。武道とはそんな甘いものではありません。そんなに器用では無いので、20数年のブランクは簡単には埋まらないのです。
移動基本と、かなり不慣れな自由一本組手、型はこのときと、続く大会のためにがんばって練習した抜塞大。

審査をしていただいた先生の一人からは、「正確さが足りない」とご指摘を受けました。抜塞大は簡単そうに見ええて、細かい挙動が難しいという事を、その後段々覚えて行くことになります。

(※移籍制度はその後、確か2度ほど内容が変わり、現在では無くなっている模様です。)

2012年7月1日日曜日

Episode1-(2) Introduction.

つい昨日の事ですが、道場に見学の方がいらっしゃいました。経験者の方で、お子様2人と一緒に、体験入会でした。道場のWEBからのお問合せは、私のところに届きます。いつもは師範に転送しているのですが、最近師範は平日とても忙しそうなので、今回は私が対応しました。
当日は道衣持参でいらっしゃるよう勧めました。経験の期間から考えて、黒帯だろうとは予想はしていましたが、くたびれた黒帯を締めていました。つまりかなりの熟練者と推測されるわけです。
でも、かなりのブランクがあるとの事。私が体験入会で初めてウチの道場に行った日も事を思い出しました。

去年の3月....
とりあえず、メールには、状況を書きました。
小学校6年生から高校3年まで松濤館流の道場で稽古をしていた事。
当時の道場では、所属する道場で初段を仮に取り、公認の初段を取得する事。
道場では初段を取ったが、公認の初段には落ちていた事。

そして、返事が来ました。早速見学に行く事にしました。2011年の3月5日。当日は審査があるとの事で、楽しみにしていましたが、家庭の都合で行く事が出来ませんでした。
気を取り直して、一週間後の12日に行く事にしましたが、その前日の2011年3月11日は、日本国民であるからには、忘れることの出来ない事態が起こりました。当然稽古はありませんでした。完全に出鼻をくじかれましたが、こちらも当然それどころではありません。稽古の心配より米の残りが少なくて入手困難である事を心配していました。

安全の確認が出来ていないと言うことで、いつも利用している中学校の武道場がしばらく使えないとの事。その一週間後には、それ以外の場所で、稽古が再開されました。

スポーツウェアで行くと、師範に「道衣じゃ無いのですか?」と聞かれました。ウチの道場は、道衣があるなら、トライアルでも、道衣で参加するものだとここで私は認識しました。

当日は、準備体操をして、その場基本をして、移動基本をして、型、組手という順だったと思います。
嬉しくて、型などは、平安初段以外ほとんど覚えていないにも関わらず、全部参加してしまいました。楽しくてしょうがありませんでした。
結果、それから、2、3日、強度の筋肉痛で歩くのもままならない状況に陥ることになりましたが。

その次の稽古あたりで、入会することにしたのだと思います。元より入会するつもりではいました。
一度は黒帯になったとはいえ、25年のブランクがありました。普通考えれば、白帯からやり直しでもおかしくない。でも、師範は一歩戻って茶帯から始める事をご提案してくださいました。やり直す手間が嫌だった私は、喜んでそれを受けました。ただ、帯の色には意味があります。手間を省けた反面、帯に見合った実力が必要なのです。給料の前借りをした気分です。そこから、私のブランクを取り戻すための駆け足の稽古が始まりました。もういい歳です。きついに決まっています。でも、結局私はせっかちなのです。


ちなみに、私が高校生の頃使っていた道衣と、黒帯は実家にあるはずでした。後日帰郷し、徹底捜索をしましたが、見つかりませんでした。両親は引越しのタイミングか何かに捨てたかもと言われました。まぁ帯はともかく、道衣はもうものすごく黄ばんで使い物にならなかったことでしょう。

そういうわけで、道衣は新調しました。
届いたとき、嬉しくて、自宅で撮影しました。
高校生の前半だったか、ひと通り成長が止まった頃、少し小さくなった薄い道衣を着ていました。、当時の師範に勧められて買った綿の分厚い道衣を思い出して、似たような道衣を買いました。綿はとても縮むので、現在の師範の勧めもあり、かなり大きめにしました。茶帯は借りる事にしましたが、在庫が無かったようで、新品を支給して頂きました。

2012年6月23日土曜日

Episode1-(1) Background to the Introduction.

うちの近所にスポーツクラブが出来ました。2009年の5月だったと思う。
それ迄の私はスポーツクラブなんて金持ちのお遊びだぐらい思っていました。
その夏、既に入会していた家の者に付き合って、体験入会に行ってみました。汗を掻いたあとに入ったジャグジ(泡風呂)の気持ち良さにつられて、ついつい入会してしまいました。

ちなみに「金持ちのお遊び」なんていうのは偏見で、近頃はリーズナブルのところも多いようです。駅から離れたところに、本来は景観の良い最上階に置くプールを下の階にして、建物の強度を出すためのコストを減らし、会費を抑えて、地域密着型でフレンドリな雰囲気を出すような感じのビジネスモデルが最近増えているとビジネス誌に書いてありましたが、まさにそれに一致するスポーツクラブでした。

最初は、ジムで走ったり、筋トレをしたりでしたが、そのうち、スタジオに入るようになりました。スタジオではヨガやエアロビクス、ダンスなどなど、色々なプログラムがあるのですが、特に気に入っていたのは、格闘技を使ったエアロビクス(※)でした。ボクシングにムエタイ、カポエラ、空手、マーシャルアーツなどなど、節操無く色々な格闘技の技を、音楽に合わせて繰り出します。そのときのインストラクタが、カリスマな感じのとても人気のある人で、私自身も楽しく参加していました。「音楽に合わせて」なんて言うと、楽しそうなイメージですし、45分間ちゃんとやると、半端無くきつい。最初は最後まで息が続かなくて、最後の方は力が入らなかったのですが、次第に慣れていきました。しかも適当にやるのが嫌いだったので、全力でやっているうちに、次第に動きも鋭くなっていきました。

※ちなみに、その「格闘エアロ」はレスミルズという団体が主催する、スポーツクラブ限定のプログラムで、インストラクタもスポーツクラブ所属で無いとなれないというもので、この格闘技系プログラムの正式名称は「ボディコンバット」という。その他いくつかのプログラムがある。

余談ですが、その「格闘エアロ」に出てくるムエタイの連続エルボ(エルボ=肘打ち。空手用語では「猿臂」)を、この一連の話しの中で使う日が来ます。その件はそのときのお話で。

その翌年の3月だったと思いますが、そのカリスマ・インストラクタが転勤になり、その格闘エアロの時間が一時激減しました。その後、インストラクタが育ってきたのか序々に増えていきましたが、時間が合わなかったりして、あまり参加出来なくなりました。
さらに、ボクシング、ムエタイ、カポエラはよくわからないが、「空手はこんなんじゃ無い」と思いました。私は子供の頃空手をやっていたのです。何が違うのか、大きな違いは、引き手です。引き手無しに受けるのです。それはどうでも良いのですが。なんだか無性に空手がやりたくなりましたが、とりあえずその頃は、昔同時に陸上部所属でもあった事を思い出して、なぜかマラソン大会に出たりとかしていました。

(練習半年、10km、36-49歳の部で596人中54位、総合順位143位。
我ながら良くやったという感じです。ゴールは当然「グリコ」のポーズです。足は上げていませんが。)

スポーツクラブにも、有料の空手教室がありました。近所の道場が出張してきているようです。ただ、それは所謂「極真」です。極真についての知識はその段階では、「フルコンタクトと寸止めの違い」ぐらいにしか考えていなかったのですが、なんとなく気が進まみませんでした。極真が嫌なのでは無く、せっかちなので、今更新たな流派に入って、一から覚えるのは億劫に思えました。そう考えると、同じ「日本空手」でも流派が一緒な方が良いと思いました。
そして、翌年2011年2月。多分気まぐれだったと思いますが、「空手中原区松濤館」のようにインターネットで検索した。一箇所バッチリな道場が引っかかりました。子供の頃稽古していた道場の流派である「松濤館流」という記述は見つからなかったのですが、ところどころの写真を見れば、立ち方で分かります。そこから数日迷って、あるとき意を決して、道場の師範にメール送ったのです。


2012年6月17日日曜日

Episode1-(0) Prologue.

2011年9月4日。私は、現在の道場に入門して初めての試合に臨みました。
その試合は、初心者が参加する試合で、一切口にはしませんでしたが、優勝するつもりでいました。大人は型だけで組手がありませんでした。型は得意なつもりでいました。

私が所属する道場の参加人数も少く、妙に大人が沢山いる道場なのだですが、その日は大人は私ともう一人SHIOさんだけで、あとは子供が4人。参加人数が多い道場は、大きな声援が飛んびました。見事なまでに「アウェイ」感がありました。そのせいというわけでは無いのですが、子供たちはことごとく、初戦か二回戦で敗退してしまいました。
そして大人の試合。
20数年ぶりの試合。かなり緊張していたし、試合といえばいつだって、緊張しているのですが、同じ道場の女の子に、「あとは私に任せておきなさい。」とか吹いていました。勝つ気満々。勝とうとしているから尚更緊張します。
これで本当に優勝していれば、ちょっと「カッコイイオジサン」になれるところでした。

型の試合は、予選は2人ずつ対戦し、優劣を競います。その場で演武する型を伝えられます。
私の相手は黄色帯(8、7級)。かなり若そうな人だった。主審は「平安二段」を告げました。
気合全開で、平安二段。そして、判定。当然勝ったと思っていました。

判定のとき、結果よりも先に歓声を感じました。引き分け。黄帯と茶帯が引き分けたから歓声が上がっていたのです。
引き分けの場合は、再度演じることになります。「平安初段」と告げられました。平安二段を全身全霊で演じたので、もはや余力は残していませんでした。歳は取りたく無いですが、結局は修行が足りないのでです。当然動揺もしていた事でしょう。
そして平安初段終了後、判定は、確か3対1だったか4対0だったかもはや見ていませんでした。ものすごい歓声が上がりました。副審の旗を見るまでも無い。負けを悟りました。

ただ、ここで言っておきたいのは、決して続けて疲れていたから負けたのではありません。相手が上手だったのです。私は常々、平安初段は一番難しいと思っています。もっと言えば協会の審査では出てきませんが、もっと初歩的な「太極初段」はもっと難しいかも知れません。平安初段をしっかりできるという事はしっかり鍛錬しているということです。私は鍛錬が足りない。途方も無いブランクを埋めるには、まだ至っていなかったのでしょう。

ただ、それは今になって言える事で、当日はただただショックでした。
午後は組手の試合で、大人の出場は無かったし、ウチの道場からは子供も含め誰もエントリしていませんでしたが、道場の子供達は見学のため残っていました。私は逃げるように、会場をあとにしました。
会場を出ると、突然の通り雨。
「頼むから早く帰してくれ」と言いながら、会場となっている小学校の、会場とは別な建物のひさしの下に立ち尽くしました。
雨が少し弱まったので、折りたたみ傘を広げて、歩き始めました。
途中、昼食を買いに行ったウチの道場の先生と子供たちに道路を挟んで出くわしました。とても気まずい。

精一杯の笑顔で、
「山に籠ってきます」
とか意味不明の事を言って、手を振りました。

それからバスで、横浜へ。横浜に着くとまるで何事も無かったように晴れていました。
横須賀線のホームの下にあるKIOSKで、酒を買って、ホームで飲みました。確かリザーブウォータだったと記憶します。「かっこいいオジサン」になるはずの人は、タダの「ダメな人」になっていましたた。

今思えばここが一つの転機だったのかも知れません。